親戚の法要に行った。
宗派が仏教の浄土真宗だったため、お坊さんからのお話があった。
内容をギュッと固めると、人間とは成長していけば行くほど視野が固まり柔軟な考え方が出来なくなる。その現象は本来の人間のあるべき姿からどんどん遠のいている。
ここで、なぜ今世で我々は悩んでしまうのかという問の答えがいきなり出てくる。母なる大地にある真の魂は成長とともに姿を変え離れていく。そのため、拠り所がなく不安になり、宗教など様々な物に縋って生きていくそうだ。
たしかに。
では、母なる大地にあり続けたまま生きることは出来ないのか。それは内省が出来ないものだけが行えるらしい。
例えば、花。自我が芽生えた花は「私がいちばん美しい!」と自覚する。なんとも浅ましくなってしまう。
しかし、我々人間はこの地球で唯一自身を人間と認識できる生命である。そのため、この生命体で生まれたからには、母なる大地から離れる不安と内省の業を背負うしかない。
え?母なる大地?…無心?
ただ欲もなくただそこにいることが無心…
それっ……て………こちゆご?(え??)
飛躍するが、「ただそこに居るだけでいい」と故ヒロムにオーダーを受けたことで有名なこちゆごさんを突然思い出してしまった。
もちろん、こちゆごさんも人間であるため、自分の魂と乖離する"業"を持っている事に変わりない。多分。
でも、SixTONESにとっての帰ってくる場所や依代としての役割をこちゆごに求めていたとしたら…漠然とした不安を取り除くための大地として存在するよう求めていたとしたら…。
まさしく、こちゆごこそがSixTONESがSixTONESになってから現状まで、帰ってくる場所にあるべき安心を構成しているのではないか。
大地は動かない。近づくのも遠ざかるのも己次第なのである。
そう思うと、対こちゆごの関係性は全て他主体なのかもしれない。
死してもなお、変わらずそこにあり続ける魂の故郷である母なる大地。
風の時代を生き、変化の時代を羽ばたくSixTONESにはそんな存在としてのこちゆごを求め、そうであれと本人に伝えたかったのかもしれない。
(※お話は聞いたもので、解釈は妄想です)